もういいよ。

死ぬことは、生きること。

豊かな世間様に手を合わせる

 

世の中には、還暦を過ぎてますます消費スピードを上げている人たちがいるようだ。

おカネが有るところには、おカネがあることがわかる。すばらしいことだ。

そういう、齢をとってからも可処分所得の規模を保持して消費を続けている方々が、経済社会を回してくださっている。たいへん有難いことだ。

社会を繁栄させてくださっていて、有難うございます。

おかげさまで、繁栄を享受しながら、人生の12月に向かって地味に暮らせております。

私の場合、

必要のないモノやコトや思い出へ出費する分を貯めないと、

老後が不安でならない、そんな境遇だ。

 

贅沢品や嗜好品といった本来無駄なモノやコトにお金を払わなければ経済が回らなくなったのは、家臣の働きの報酬に土地を与える封建制度が、もはや与える土地が尽きてしまって、制度自体が行き詰まったからではなかろうか。

織田信長は、家臣に与える土地が尽きてしまったから、堺の豪商から茶道具を(パワハラで)安く買いたたいて、「一点物の高価な」茶碗を家臣に与えるようになったそうだ。茶碗だよ。土地じゃないよ。土地をもらったら、農民に耕させたり、商業を振興したりして、利益を生むことができる。ところが、茶碗をもらって何になる? 主君から頂戴した茶碗は骨董屋に売ることもできないし、何かの拍子に割れたら切腹ものだ。

こういった類が、モノについた泡(あぶく)。つまりバブルだ。

ファッションもそうだ。「太陽王ルイ14世がベルサイユ宮殿で夜ごと舞踏会を開いたのは、臣下の貴族たちの富を無駄に失わせるための仕掛けだった。舞踏会があるごとに、女性に派手派手のドレスを仕立ててあげたり、すっとんきょうな髪型を結わせたりして、謀反の軍資金に蓄えもできる彼らの富を、湯水のように使わせた。 

フランス革命後、貴族の没落とともに、すでに実(じつ)では回らなくなっていた経済を回すために、無駄遣いの役目を負わされたのが、新興富裕層。ブルジョアだ。そして、二度の世界大戦で裕福になったアメリカの自動車工場の労働者から成り上がった「中流」に、その役割が移っていった。 

中流の夢。それは、もと労働者階級の夢。

豪華客船のクルーズ旅行も、オリエント急行の豪華鉄道旅行も、もともとは、自分は手ぶらで移動し、ルイヴィトンのつづらをポーターに運ばせる貴族たちの道楽だった。それが今は、自分でヴィトンのコロコロをえっちらおっちら引きずりながらの、実のところは搾取され続けている、表向きは中流階級(だが実は貧しい労働者階級)の勘違い道楽だ。 

 

そんな世の中で、

私は、子供の頃から私の心の中心に、鎮座しておられる、

ニジマス先生に教えを乞う。

ニジマス先生は、どんな釣り餌にも、泰然自若として、動かなかった。

可処分所得が乏しい私の場合は、ニジマス先生を見習わなければ、明日が来ない。

可処分所得が多い方々は、世の経済を回すために、どんどんおカネを使って欲しい。

 

私の場合、60間近になったら、

実(じつ)の無いモノやコトは

もうどうでもいいよ。

どうでもいいよ。

もういいよ。

もう、いいよ。

浅井忠「十二月」(部分)  NDLイメージバンク(国立国会図書館)

作品全体図はこちらのURLのどこかにある:

美術文芸雑誌『方寸』|NDLイメージバンク|国立国会図書館