もういいよ。

死ぬことは、生きること。

「いち姫、に太郎」は実際は「いち下女、に太郎」だった。

 

少なくとも、昭和の高度成長期において、

「いち姫、に太郎」が良いとされていたようである。

「最初に産む子は女の子、二番目の子どもは男の子が良い」という意味だ。

おそらくは、最初に産む子が女の子だと、女の子はおとなしいので、新米ママが子育ての負担が比較的少ないからだろう。

そして、次に産むであろう、わんぱくな男の子の子育ての予行演習になるからだろう。

 

実は、「いち姫」の「姫」は、実際には「下女」なのだ、ということを、今悟ったので、久しぶりにこのブログを更新している。

 

庶民の「お姫様」は、実際には「下女」だ。

だから、

「いち下女、に太郎」が、実のところ正しい表現だ。

 

かたや、

殿上人の「お姫様」は、実のところは政略の駒(コマ)だろう。

徳川家康の娘で、結婚と出戻りを繰り返したお姫様がいたとおもう。

乱世の時代に、父親である家康によって、

政略結婚の駒(コマ)に使われたのだ。

ほんとうの「お姫様」も、楽ではない。

西洋の民話に、「竜に人身御供に出されるお姫様を助ける勇敢な王子」というストーリーがある。

お姫様は、ときには、人身御供に供出されることもある。

それでは、竜とはいったい何を意味しているのか?

 

究極の、本当に真の意味でのお姫様の象徴的な存在とは?

それは、サザエさんである。

家付き娘である。

実家から嫁に出されることが無い存在だからである。

実家から、外の世界に嫁に放り出される女性は、下女か人身御供になる。

 

まあいいや。

そんな「下女人生」を送ってきた私も、

今まで生き延びてきただけで、見事なもんだ。

60間近になったら、

そんなこと、

もうどうでもいいよ。

もういいよ。

もう、いいよ。

浅井忠「十二月」(部分)  NDLイメージバンク(国立国会図書館)

作品全体図はこちらのURLのどこかにある:

美術文芸雑誌『方寸』|NDLイメージバンク|国立国会図書館

 

 

「私が〇〇してわかったこと」←知らねーよ!

 

ブログ表題:「私が〇〇してわかったこと」

知らねーよ! 知る気もねーよ!

だから、

読む気もしねーよ!

このような、クリックを誘う思わせぶりな見出しの書き方は、ネット社会以降の現象だ。

「新聞の見出しは、時間の無い人が見出しだけ読んで記事の要旨を一目で把握できるように書く」というのが、モダン・レトリック(現代の文章作成法)の定石だった。

それが、今はどうだ?

「〇〇してわかったこと」

「〇〇のために一番大切なこと」

「いちばん〇〇な行い/病気/問題とは?」

「著名人の〇〇さんがルーティーンでやっていること」

こういうネット見出しは、読む人のクリックを誘うために、

さもしく物欲しげなレトリックで書かれている。

クリック数によるページ閲覧数の多さがネット広告の効果の指標につながるという、

ネット社会ならではのレトリック、というか、

レトリックにも満たない、子ども騙(だま)しの罠だ。

それに、まんまと誘導されて、開けてみたらほとんどがわかりきった不毛な情報なのに、クリックし続けて、ますます愚かになっていく、ネットの愚民たち。 

 

60間近になったら、

そんな、物欲しげな釣り餌は、うっとうしいだけ。

そんな記事、読む気もしない。

どうでもいいよ。

もういいよ。

もう、いいよ。

浅井忠「十二月」(部分)  NDLイメージバンク(国立国会図書館)

作品全体図はこちらのURLのどこかにある:

美術文芸雑誌『方寸』|NDLイメージバンク|国立国会図書館

 

 

キレイでいるために、汚れる

 

キレイでいるために、汚れる。

正しくあるために、折れる。

リコウでいるために、バカになる。

豊かでいるために、貧しくある。

自分を守るために、自分を踏みつける。

人間でいるために、人間をやめる。

 

生きているうちに、反対のことをしなくても生きていけるようになれたら。

 

60間近になったら、

こういうことは、

もうどうでもよくなりたい。

 

どうでもいいよ。

もういいよ。

もう、いいよ。

浅井忠「十二月」(部分)  NDLイメージバンク(国立国会図書館)

作品全体図はこちらのURLのどこかにある:

美術文芸雑誌『方寸』|NDLイメージバンク|国立国会図書館

 

 

豊かな世間様に手を合わせる

 

世の中には、還暦を過ぎてますます消費スピードを上げている人たちがいるようだ。

おカネが有るところには、おカネがあることがわかる。すばらしいことだ。

そういう、齢をとってからも可処分所得の規模を保持して消費を続けている方々が、経済社会を回してくださっている。たいへん有難いことだ。

社会を繁栄させてくださっていて、有難うございます。

おかげさまで、繁栄を享受しながら、人生の12月に向かって地味に暮らせております。

私の場合、

必要のないモノやコトや思い出へ出費する分を貯めないと、

老後が不安でならない、そんな境遇だ。

 

贅沢品や嗜好品といった本来無駄なモノやコトにお金を払わなければ経済が回らなくなったのは、家臣の働きの報酬に土地を与える封建制度が、もはや与える土地が尽きてしまって、制度自体が行き詰まったからではなかろうか。

織田信長は、家臣に与える土地が尽きてしまったから、堺の豪商から茶道具を(パワハラで)安く買いたたいて、「一点物の高価な」茶碗を家臣に与えるようになったそうだ。茶碗だよ。土地じゃないよ。土地をもらったら、農民に耕させたり、商業を振興したりして、利益を生むことができる。ところが、茶碗をもらって何になる? 主君から頂戴した茶碗は骨董屋に売ることもできないし、何かの拍子に割れたら切腹ものだ。

こういった類が、モノについた泡(あぶく)。つまりバブルだ。

ファッションもそうだ。「太陽王ルイ14世がベルサイユ宮殿で夜ごと舞踏会を開いたのは、臣下の貴族たちの富を無駄に失わせるための仕掛けだった。舞踏会があるごとに、女性に派手派手のドレスを仕立ててあげたり、すっとんきょうな髪型を結わせたりして、謀反の軍資金に蓄えもできる彼らの富を、湯水のように使わせた。 

フランス革命後、貴族の没落とともに、すでに実(じつ)では回らなくなっていた経済を回すために、無駄遣いの役目を負わされたのが、新興富裕層。ブルジョアだ。そして、二度の世界大戦で裕福になったアメリカの自動車工場の労働者から成り上がった「中流」に、その役割が移っていった。 

中流の夢。それは、もと労働者階級の夢。

豪華客船のクルーズ旅行も、オリエント急行の豪華鉄道旅行も、もともとは、自分は手ぶらで移動し、ルイヴィトンのつづらをポーターに運ばせる貴族たちの道楽だった。それが今は、自分でヴィトンのコロコロをえっちらおっちら引きずりながらの、実のところは搾取され続けている、表向きは中流階級(だが実は貧しい労働者階級)の勘違い道楽だ。 

 

そんな世の中で、

私は、子供の頃から私の心の中心に、鎮座しておられる、

ニジマス先生に教えを乞う。

ニジマス先生は、どんな釣り餌にも、泰然自若として、動かなかった。

可処分所得が乏しい私の場合は、ニジマス先生を見習わなければ、明日が来ない。

可処分所得が多い方々は、世の経済を回すために、どんどんおカネを使って欲しい。

 

私の場合、60間近になったら、

実(じつ)の無いモノやコトは

もうどうでもいいよ。

どうでもいいよ。

もういいよ。

もう、いいよ。

浅井忠「十二月」(部分)  NDLイメージバンク(国立国会図書館)

作品全体図はこちらのURLのどこかにある:

美術文芸雑誌『方寸』|NDLイメージバンク|国立国会図書館

 

 

死ぬことは、生きること。

 

「死ぬことは、生きること。」だと思った。

 

死んだ後に、その人の人と成りや生きざまが、周囲に知られるところとなる。

 

「義母が亡くなった後、義母がお墓や相続など、死後に必要な手続きをキチンと行っていたことが判明した。残された子どもたちの手間を最小限にして旅立った義母は、天っ晴れであった」という内容の、どなたかのブログ記事を拝読しだ。

そのとき、「死ぬことは、生きること」なんだなぁ、と、しみじみ思った。 

人間は、死んだ後に、生前にどのような生き方をしていたかが白日のもとになり、それを記憶されるんだ、と思った。

 

自分の死後の手続きがグダグダになって、残された人たちに手間をかけたり、彼らを争わせたりする生きざまであれば、「その人の人生はグダグダでした」と、残された人たちの心の墓標に刻まれる。 

生前どんなに、業界が仕組んだ「セレブなシニアが発信する流行のライフスタイル」を追いかけておカネ使い続けてオシャレにキメてセレブな暮らしぶりをマネて満足していても、死後の手続きがグダグダだったら、「その人の人生はゴミ屋敷でした」と記憶される。 

逆に、生前、身の丈に合った暮らしをしていて、死後の手続きが水際立ってサクッと終了した人は、「その人の人生はキレイで天晴でした」という生き様を残すことになる。 

 

人生の後半は、死へ向かって生きていく。

お迎えが来たらサクッとこの世を卒業して、跡を濁さず旅立てればいいなと思う。

死ぬ間際に、「この世に生まれて、苦労が多かったけれど、「終わり良ければすべて良し」で、人生の終盤は幸せに過ごせて、ほんとうによかった。ありがとうございます。」と感謝しながら、清々しい気持ちで旅立ちたい。

それの足かせになる、無駄なモノやコトや思いは、いりません。

60間近になったら、魂の足を引っ張る無駄なモノやコトや思いは、

もうどうでもいいよ。

どうでもいいよ。

もういいよ。

もう、いいよ。

浅井忠「十二月」(部分)  NDLイメージバンク(国立国会図書館)

作品全体図はこちらのURLのどこかにある:

美術文芸雑誌『方寸』|NDLイメージバンク|国立国会図書館

 

 

ブル中野氏とクレーン・ユウ氏と、愛甲猛氏は好きだ!

 

ブル中野さんは苦労人だ。

この人は、一般企業に就職しても、どこに行っても、頭角を現していただろう。

ブル中野さんの動画を見ると、涙が出る。

女子プロレス人気を別次元に押し上げた、悪役レスラーの偉大な歴史における、新旧をつなぐ中間管理職としての、大変な気配りと全方向的な気働きに加えて、背水の陣で人生に挑んでプロレスのスターに成り上がって君臨し、今もなお大きな影響力を持っておられる生きざまに、感動するばかりだ。 

私は一般人だが、ブル中野さんの生きざまを尊敬している。

 

クレーン・ユウさん、とても好きだ。

この方のお人柄の良さは、生まれ育った家庭が幸せだったのかもしれない。

だからこその、この何とも言えない、癒し系というか、ほっこりするお人柄なのかも。

優しいんだけど、今なお強力なブランド力を維持しておられる、

クレーン・ユウさんみたいな齢の重ね方は、理想だと思う。

 

愛甲猛氏のトークのすばらしさ。愛甲氏は、恐ろしく大変な苦労人だ。

愛甲氏は、プロ野球界における、絶品の優良コンテンツにお成りになった。

愛甲氏の人生は、終生、安泰であられるだろう。

AIの時代に、結局のところ、人は誰しも自らの究極的な人間力が全てであること、

そして、自らの究極的な人間力は、苦労に打ち勝とうと苦しみもがきながら自分の足で前進することからしか、養うことができないことを、

愛甲氏は思い知らせてくださる。

 

同じ世代の方々が元気闊達に活躍しておられる姿を見ると、元気をいただける。

 

ご同輩世代の著名人から元気をいただきながら、

私も、自分のちっぽけな領分の内で、ゆるゆると淡々と、生き延びていきたい。

若い頃の無理な背伸びやキバリや見栄や欲張りは、もういいです。

60間近になったら、無理に背伸びしてキバって見栄張って欲張っても、疲れるだけだから、

もうどうでもいいよ。

どうでもいいよ。

もういいよ。

もう、いいよ。

浅井忠「十二月」(部分)  NDLイメージバンク(国立国会図書館)

作品全体図はこちらのURLのどこかにある:

美術文芸雑誌『方寸』|NDLイメージバンク|国立国会図書館

 

 

高齢の「おひとりさま」と、「ひとりシニア」は、違うようだ。

 

先日書いたこの記事で:

 

別居する子どもがいる高齢者も「おひとりさま」というのか?と疑問に思ったが、

「ひとりシニア」という言葉があるんですね。

「ひとりシニア」という言葉も、出版業界が作ったみたいだ。

私の記憶だと、「おひとりさま」も出版業界が作ったのではないかと思う。

もう何年も前に、未婚の独身女性の人が著した、自分の生活や生き方を書いた本の題名に、「おひとりさま」が付けられていたと、記憶している。

その後、「おひとりさま」という言葉は流行語になった。

その著者の方は、のちに「おひとりさまの老後」みたいな題名の本も出して、

未婚の独身女性の高齢化の問題が注目されるようになった、と私は記憶している。 

 

これに対して、「ひとりシニア」は、近年に作られた言葉のようだ。

「ひとりシニア」という呼び名で本を出版したシニア女性には、お子さんがいるんだね。

「ひとりシニア」のほうが、高齢化した「おひとりさま」よりも、カバーする範囲が広いというわけだ。

ということは、潜在マーケット(読者層)も広いね。

プロ(出版業界)のプロデュースはやはりプロの技だ。

「おひとりさま」もそう思ったが、

「ひとりシニア」もそうだね。

飛ぶように本が売れていることだろう。

ひとりシニア」っていう言葉を推す出版社もあるようですね。

マガジンハウス(かな?)が編み出した「ひとりシニア」と同じ意味だろうね。

マガジンハウスは、このテのものでは最強だろうからね。たしか「断捨離」もマガジンハウスからじゃないかな?

 

別居する子どもに見守られながらの「ひとりシニア」や、

旦那さんと死に別れて遺族年金をもらう「ひとりシニア」に比べたら、

高齢の「おひとりさま」のほうが、老後の厳しさはケタ違いかな?とも思うが、

「おひとりさま」として平気で齢を重ねられたことは、

もともと、経済的にとても恵まれた境遇に生まれたから(結婚する必要性も気も起きなかったから)かもしれないしね。

どっちが厳しいかは、それぞれの人の境遇によるんだろうね。

 

まあ、人のことよりも、自分の心配をしないとね。

60近くになったら、他人の分類法なんて、

どうでもいいよ。

もういいよ。

もう、いいよ。

浅井忠「十二月」(部分)  NDLイメージバンク(国立国会図書館)

作品全体図はこちらのURLのどこかにある:

美術文芸雑誌『方寸』|NDLイメージバンク|国立国会図書館